御屋敷の歴史



 江戸時代中期 1793年、 種子島家の家臣・羽生道潔(はぶ どうけつ 1768-1845)が27歳の時にこの屋敷を建造しました。 この屋敷で育った道潔の孫・羽生慎翁(はぶ しんのう 1826-1901 上図の肖像)は幼少より祖父道潔について読書・手習いを修業し、弓術、槍術、示現流剣術、故実礼法、池之坊花道など文武両道を極めました。 特に花道では、1887年(明治20年)京都において池之坊の大日本総会頭職にまで登りつめました。

羽生慎翁の足跡 1875 (明治8年)
家元42世専正師より生華伝法皆伝立花数ケ條の伝授を受け、号を「梅陰亭月窓(ばいいんていげっそう)」と称す。
その後、大日本華道家元京都六角堂池坊の門弟となる。
1879 (明治12年)
薩摩・大隈両国会頭職就任。
1882 (明治15年)
大日本総会頭職(宗匠代理、東京出張所長)就任。
その後、久邇宮の花道御用、また島津公爵家や大徳寺の花道教授となり、池之坊正派を全国に広めた。
これらの功績を讃え、東京高輪泉岳寺境内に公徳碑が建てられた。


種子島でも江戸時代以降、池之坊花道が盛んになり、屋敷周辺にはハラン(花材)が植えられ、婦人たちが修業をしていました。
1907年(明治40年)刊行の池之坊家元撰『百花式 上・下』は日本全国の作品から100点を厳選したものですが、そのうち37点は種子島西之表の人の作品です。「月窓亭」の名前はこの羽生慎翁の号「梅蔭亭月窓(ばいいんていげっそう)」に由来しています。

月窓亭と、この頃の日本の年表


1774 『解体新書』の刊行
1792 ロシア使節ラクスマンが根室に来航
1793 月窓亭の建築
1803 アメリカ船が長崎に来航
1804 ロシア使節レザノフが根室に来航
1808 フェートン号事件
1815 『蘭学事始』の完成
1821 『大日本沿海輿地全図』の完成
1824 シーボルトが鳴滝塾を開く
1825 外国船打ち払い令
1830-1844 (天平年間) 歌川広重 葛飾北斎の活躍
1840 アヘン戦争
1842-1855 松寿院の執政
1853 ペリー来航
1854 開国
1856 篤姫のお輿入れ
1867 大政奉還 王政復興の大号令
1869 版籍奉還
1871 廃藩置県
1877 西南戦争
1879 羽生慎翁『池之坊』薩摩・大隈両国会頭職就任
1886 守時君をこの屋敷に奉迎する
1887 大日本総頭職兼花道教授に任命される

種子島家の奉迎


明治19年6月27日守時君幼沖にして依るところ無きを以てす。是に至りて譲蔵等、島人らと協議し、守時君をして、しばらく旧臣に依らしめ、その成立を待って以て家運を挽回せんと欲す…」(種子島家譜6巻)

明治15年(1882)、病弱だった25代久尚氏は、8歳と4歳の幼い二人の男児を残してこの世を去ります。

版籍奉還により領地のみならず私財として残すべきものも殆ど返上して頼るものが無く、3年後には母君とも死別された二児の身の上に心を馳せた旧臣や種子島の人々は、
せめて成人されるまでは島方でお守りしようと協議した末、まず兄の時丸君を東京在住の旧臣たちがお呼びしましたが、東京遊学中11歳で麻疹のため亡くなります。

前田豊山はじめ旧臣の主だった者たちは、弟の守時君を種子島にお呼びするために奔走しました。

この頃、羽生慎翁は池之坊大日本総会頭職として東京で活躍しておりましたから、
赤尾木城を眼前にするこの羽生慎翁旧宅を住居とすることを決定し、明治19年(1886)10月31日、守時君をこの屋敷に奉迎することになりました。

守時君はこの家から赤尾木城跡地に建てられた榕城小学校に通いました。
以来、種子島の人々はこの屋敷を「お屋敷」と呼ぶようになり、島の誇りとして心の拠り所となりました。

月窓亭開館




平成12年、種子島家が島外に転居されて以降この家は西之表市に譲渡されました。
市の文化財登録を受けて平成22年4月に種子島の文化伝承の場、おもてなしの場として『赤尾木城文化伝承館 月窓亭』が開館しました。