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2012年3月3日土曜日

ひなまつり


初節句、女の子が誕生して初めての節句の日は、夜は親類縁者がお祝いにやって来るから、主婦は早朝からその料理の準備で忙しい。
お客はダーと呼ばれる花や餅で飾ったお膳を持って集まって来る。ダーとはお膳のこと。床の間には、鹿児島の市で買った泥人形(東郷人形・帖佐人形)が飾られ、床の間の座敷には、持ち寄ったダーが並べられる。親戚の多い家では、座敷一杯にダーが並んだ。
ダーはお膳の中央に大根を10センチ程度に切ったものを置き、それに季節の花々を刺して飾る。その周りには紅白の菱餅、丸餅、緑色のよもぎ餅、さらに美しい着物が並べられる。
美しく飾ったダーの前で、娘が美しく、器量良く、健康に育つことも祈念して、深夜まで酒盛りが行われる。
翌朝、ダーのお膳を返さなければならない。お客から頂戴した餅を少しずつ配分してお膳に載せて、お返しする。こんな素敵なお祭りは大正時代頃まで行われていたという。

( 広報にしのおもて 市制の窓 昭和59年3月号)

2012年3月1日木曜日

貝切り


種子島では二月から三月の北西の季節風を「貝寄せ(かーよせ)」と呼んだ。
この強い風で、沖からマサゴ(貝)や海草、流木などの漂流物が島の海岸に打ち寄せられる。
大人は畑の肥料にするために海草を集めた。
そのあいだ子供たちは眼をぬすんで美しい貝(マサゴ)を手の甲にのせて、それをザクリザクリと切り取り、誰が多く切り取れるかを競い合った。

その他絵のように「貝のおはじき」「お手玉遊び」などの遊びがあった。

 (広報にしのおもて 市政の窓 昭和58年9月号)

こままわし




春先の島の冬は、北西の季節風「カーヨセ」が吹き荒れ厳しいが、それに負けじと風を除けた陽だまりを見つけて子供たちはコマ回し、ネン打ち、弓矢つくりなどに遊びふけった。
昔の遊びは大人が子供に教育的意識のもとで教えたもの、子供たち自身の創造によって出来上がったもの、子供たち自身の創造によって出来上がったもの、全国的なもの、地方的なものと大別することができるが、いずれにしても昔の遊びは社会性を身につけさせたり立派な社会人になるための大切な修練の場であったことには違いなかった。
コマ回しのコマは山琵琶、椿、マテ、カシなどの硬木を円錐状に先端部をナタで削って作る。打ち棒は60センチ程度の竹や木の棒。
梶(椿、三又)の皮をはいで天日に干しもみほぐして表皮を落とし中の繊維を棒の先端部に結びつけてコマを打つ棒とする。
最初は軽く、序々に回転に合わせて強く打つ。コマは唸りをあげて強く回る。
とくに山琵琶のコマは大きな唸りがするので、大変重宝がられた。
ゲームの方法は回っている時間、飛距離、相手のコマを倒すなど色々あった。

(広報にしのおもて 市政の窓 昭和58年3月号)

2012年2月1日水曜日

まりつき唄


今から百年くらい前、明治時代のはじめに流行していた「まりつき唄」。

夏から秋にかけて海岸に打ち寄せる海綿(ワタゾーラ)を拾って丸め、その上に綿や布をかぶせ糸を巻く。
さらにその上を思い思いの模様に刺繍をして出来上がり。
まりつき唄には、いろいろな歌詞がある。

「竹ノコすみそ、一銭がと三ツ まーけて四ツ チョイナ」とか
「ヒーフーミーヨーのうぐいすが 梅の小枝に巣をかけて 十二の卵を生みそろえ…」
「日本の乃木さんが がいせんす すずめ めじろ ロシア…」など、遊びの中に学習があった。

(広報にしのおもて 市政の窓 昭和58年2月号)

2012年1月1日日曜日

正月のあそび



正月の子供の遊びに、かるたとり、凧揚げ、独楽まわし、羽子つき、まりつき、地方的なものとして粘打ち、タブ投げ…などがあった。

(広報にしのおもて 市政の窓 昭和58年1月号)

2011年11月23日水曜日

ツワの花投げ・竹馬




冬の花の少ない時期にツワブキは花を咲かせ、野山を真っ黄色に染める。

「ツワの花投げ」はツワブキの花を摘んで細い竹の先につき差し、谷間めがけて飛ばす遊びである。
空中高く飛ばすとクルクル回りながら谷間の底へ落ちていく。
それは子供心に、まるでヘリコプターか宇宙からのUFOのように連想させるのだった。


「竹馬」は「タケンマ」と発音する。
子供の頃から仲のよい友達を「竹馬(ちくば)の友」というように子供の遊びの象徴でもあり日本古来の遊びの一つである。
特に成長期の子供にとって少しでも高いところからみんなを見下すことは優越感がわき、大将であることを意味した。だから高い竹馬を作り乗りこなすことに随分苦労したものである。
乗って操作するのに技術が必要で、高くなればなるほどバランス感覚がものをいう。
土手の上などを利用して乗り、上級生や先生までも見下ろしながら、我が物顔で闊歩したものである。
遊び方は、天下の大道を闊歩する、速さを競う、ボール蹴りなどであった。

(広報にしのおもて 市政の窓 昭和58年2月号)

2011年11月16日水曜日

どっきゅう (パチンコ)


秋は渡り鳥の季節である。
種子島の漁師はこの秋に、ちょうど馬毛島の北端と開門岳の間から吹いてくる北西風を「小鳥渡し」と呼んでいる。
運動会で賑わうころ、小鳥たちは風を利用して群れをなし、暖かいこの島へ越冬にやってくる。
たとえば、ヒヨドリ、サギ、セキレイ、ツグミなど、五十種類以上が挙げられる。

種子島の子供たちはこの渡り鳥の季節になると「どっきゅう」とよぶパチンコを作る。

ビワやトベラなどの木の二又になった小枝を見つけて外皮を剥ぎ、糸でU字型に固定し火にあぶる。
ヒモは自転車のチューブ等のゴムが使われた。石を挟む所は特に柔らかい皮を当てた。
丸い小石をポケットに入れて野鳥に放ち捕獲するのである。


この「どっきゅう」はいつごろ伝来したか不明であるが、中国との交流がさかんであった種子島の歴史の落し物であろう。
中国では「弩弓(どきゅう)」と呼ぶ。
ゴムが使用される以前は立ち木のバネを利用したのであろう。
それにしても中国の遊びがいつの時代にか伝来し長年通過した今でも絶えることなく呼称を正確に伝えてくれていることは、単に子供の遊びとして単視出来ない一民族の貴重な資料である。

この他「突く鉄砲」などがあった。

(広報にしのおもて 市政の窓 昭和58年11月号)

2011年10月15日土曜日

綱引き



旧暦8月15日は十五夜。全国各地で古くから伝わる、名月の鑑賞行事が行われる。

種子島ではこの晩、縁側にススキ、ケイトウ、ハギを生け、ツノマキを供え、つきの中でモチをつくウサギを見ながら一年の豊作に感謝して秋の夜長を楽しんだ。

一方、各地区の大道では綱引きがあった。
十五夜が近づくと、地区民集って、握り飯を持ってカヤ引きに行った。それぞれ引いたカヤは山中の松の枝に下げられ、ヨイショヨイショと掛け声をかけ練るのである。
一日がかりで直径二十㌢程度の頑丈な綱が作られ、日没後にこの綱を担いで歌を歌いながら岐路についた。
この綱は十五夜の晩まで公民館の中に大切に保存された。

当日は、地区の中央の道路で上・下に分かれて引き合う。

絵のように、最初に口上を唱えて「十五夜お月さま まつりあげて…ヨイヤサ ヨイヤサ」と引くのである。

先輩たちがいたづらをし、綱の後を電柱やトラックなどに結びつけたりするので、引く子供たちは大変であった。

こうして一晩引くのであるが、車が多くなり、道路でのゲームが禁止され、学校の校庭へ移っていった。
そしてカヤを引くこともなくなり、次第に姿を消していった。
綱を引くことだけでなく、綱を作る過程そのものが子供たちが共同生活になじんでいくための大切な教育の場であった。

(広報にしのおもて 市政の窓 昭和58年10月号)

2011年6月8日水曜日

ヤンカイのケンカ  (クモ合戦)


種子島ではコガネグモ(女郎グモ)のことを「ヤンカイ」と呼び、子供たちのペットの一種であった。
五月から六月、草木の枯れ枝を持って畑の周囲に巣を張るヤンカイをとって集めた。
とくに体の大きいものをダンペー、足が長くスマートなものはアシナガヤンカイ、小型ながらすばしっこいものを赤ヤンカイと区別する。
一〇匹くらい採取しては庭先の樹木に移し、ヤンカイの好物であるチョウや川ヤンカイを与えて、合戦の時まで飼育した。
合戦の時は、それぞれ自慢のヤンカイを長さ三〇~四〇㌢の竹の上に移して合戦させるが、戦闘意欲の無い時は上から砂をかけると不思議と戦闘が開始される。勝負は先に棒から地面に落ちた方の負けである。
種子島のヤンカイのケンカは加治木のクモ合戦と大小異であるが、士気を鼓舞する薩摩独特の遊び、いやそれ以前の古代から伝わる南九州の子供の遊びといえよう。

(広報にしのおもて 市政の窓 昭和58年7月号)

2011年4月11日月曜日

アーケージョウ捕り



種子島ではトンボのことをアーケージョウと呼んだ。
菜種の花につくハエはアーケージョウの好物。

「アーケージョウとまり申せ。菜種子蝿食わしょう」

と唱えながら人差し指にツバをつけて、トンボの眼前でクルクル回して素早く捕まえる。

この他に、7~8月ごろ、稲刈り後の田んぼでボーザケ(ギンヤンマ)捕りがあった。
捕まえたボーザケを糸で結び、竹にくくって飛ばしながら、「ホーホーホエホ」と掛け声をかけるとどこからともなく仲間が飛んできて糸にくくったボーザケにとまる。
それを慎重にホーキや帽子をかぶせて捕まえる遊びで、日の暮れるのも忘れて、この田んぼ、あの田んぼと走り回った。

(広報にしのおもて 市政の窓 昭和58年4月号)

2011年3月17日木曜日

めはじき・クチナシ水車




北西の季節風が過ぎると、種子島の春は本土より一足早くやってくる。
椿、桜、菜の花、桃など百花繚乱である。
子供の遊びもこの季節が最も多い。
絵は、オオバコの花茎を引き抜いて目と口に張る。すると顔の皮膚が引っ張られて面白く変わる。
その変化がたまらなくおかしくて、子供たちはお互いに「めはじき」をして笑いこけた。

梅雨期になるとクチナシの花が落ちる。香りのよいこの花に竹を通し、水車のように流れ川にさすと、クチナシの水車は気持ちよく回る。
本当の水車を見ては、子供なりにそのマネをして生産活動に参加しようとしている。
香りや色といい、子供が発見したこの水車は最高である。

(広報にしのおもて 市政の窓 昭和58年5月号)

勘助大工

「ご免なり申せ。棟梁はおじゃり申すか」 と、十四・五の男子を連れた母親が訪ねてきた。
「おー、今仕事からあがったところじゃらあ。お前は誰かな?」
「隣村の者でござり申す。この子を弟子にしてもらおうかと思うて来申したばって、名は勘助といい申す」
「かけ弟子か、住み込みかい?」
「住み込みで使うて貰おうと思うとり申す」
かけ弟子とは、通いの弟子である。
棟梁は勘助をじっくり見ながら、この子は見込みがあるかどうか見極めながらひと通りのことを尋ね、何とかなるかもしれないと住み込みの弟子にすることを決めた。
住み込みの弟子の仕事は、師匠の馬の草切りの仕事から畑仕事など一切合財であった。
これに耐え、見習い大工として現場に行くようになってもなかなか大工としての仕事は教えて貰えず、この間に辞める者も多かった。
勘助は、俺には大工は向かんので師匠は教えてくれんのかも知れないと思うようになった頃、兄弟子が言った。
「勘助、お前辞めようと思うとりゃせんか。どこの師匠に仕えても大した差はなかもんじゃ。
なるべく少しの給金でなるべく多くの仕事をさせようとするのが普通じゃ。
お前は大工の修行に来たのであろう。誰も大なり小なりこのようにして大工になったのじゃ。
これも修行のうちと思うて、勤勉・忠実・信義を養いお前が師匠離れしたときのことを考え、一生懸命修行せんか」

住み込み弟子の仕事は大工見習いよりも他に仕事が多かったので、三合星、五合星貰うようになるにはかけ弟子よりは数年遅れるのは普通であった。
三合星とは、大工の一日の賃金が百円とすれば三十円、五合星とは五十円のことである。
米一升が一日の賃金に値することからの言葉であろう。
八合星になると、師匠も安心して任せられるようになり、叱られたりすることもなかった。
師匠離れして一人前の大工になるには、一切自分の力で家一軒を作り上げなければならなかった。
大工になれず、八号星のままカンザー大工で終わる人もいた。
カンザー大工は弟子を持たずあっちこっちの師匠に雇われの大工である。

昔は丸太を動かないように固定し、鋸(ノコギリ)でエッコラエッコラ角材にわき、また、手斧(チョウナ)で削って梁や柱に仕立てた。
師匠と勘助は、両側からコツコツ、線に沿って手斧で削り始めた。一休みしたくても師匠は手を休める気配も無く、手を緩めると手斧は滑って足に切り込むこともある。師匠との呼吸を乱さないように一生懸命に削った。
ようやく師匠と尻合わせになった時は腰はしびれ、手斧を握った手は伸ばそうにも手斧を握り締めたままで、一本一本指を離したぐらいのときもあった。
平木は、平木割りの職人が杉の丸太を一定の長さに切り、一枚一枚手割りした。
平木針は竹剥を作り、油でいって作った。鉄針が腐っても竹剥は腐らなかった。

大工は、現在は建築職人の総称になっているが、奈良時代は官庁の技術官の職名で、建築技術者の最高位であった。
その下に小工などの職制があった。五合星や八合星のものは小工に属したのかもしれない。

いよいよ勘助も師匠離れする家造りの時が来た。
上の座、下の座、奥の間、地炉の間の四つを田の字型に設計して、これに土間板敷、炊事場を設けた。
中心の亭主柱は四方の切り込みである。組み合わせの墨打ちをしなくてはならない。
文字を習っていない勘助は上の座から○×△で印を付けたが、足りないのでトンボや鳥や魚など、いたずらに男や女の絵など色々と書いた。
棟上げになって、組み合わせになると順調に組み合わさってほっとしているところに、
「勘助、こけぇ来てみれ。どうしても合わんが」
切り取る所を残して、残さなければならないところを切り取っていたから、合うはずが無かった。
「勘助、こりゃ何某夫婦のようにバキーがどうしても受け付けんど。ごうらし何とかせんば亭主が泣きよんど」
と冷やかされながら作りかえて、一軒を仕上げた。

勘助は独立して大工になったが、勘助が造る家はどれも同型で、家を建てた大工が分かった。

(広報にしのおもて 市制の窓 昭和58年10月号に掲載していたものです)