2011年3月17日木曜日

勘助大工

「ご免なり申せ。棟梁はおじゃり申すか」 と、十四・五の男子を連れた母親が訪ねてきた。
「おー、今仕事からあがったところじゃらあ。お前は誰かな?」
「隣村の者でござり申す。この子を弟子にしてもらおうかと思うて来申したばって、名は勘助といい申す」
「かけ弟子か、住み込みかい?」
「住み込みで使うて貰おうと思うとり申す」
かけ弟子とは、通いの弟子である。
棟梁は勘助をじっくり見ながら、この子は見込みがあるかどうか見極めながらひと通りのことを尋ね、何とかなるかもしれないと住み込みの弟子にすることを決めた。
住み込みの弟子の仕事は、師匠の馬の草切りの仕事から畑仕事など一切合財であった。
これに耐え、見習い大工として現場に行くようになってもなかなか大工としての仕事は教えて貰えず、この間に辞める者も多かった。
勘助は、俺には大工は向かんので師匠は教えてくれんのかも知れないと思うようになった頃、兄弟子が言った。
「勘助、お前辞めようと思うとりゃせんか。どこの師匠に仕えても大した差はなかもんじゃ。
なるべく少しの給金でなるべく多くの仕事をさせようとするのが普通じゃ。
お前は大工の修行に来たのであろう。誰も大なり小なりこのようにして大工になったのじゃ。
これも修行のうちと思うて、勤勉・忠実・信義を養いお前が師匠離れしたときのことを考え、一生懸命修行せんか」

住み込み弟子の仕事は大工見習いよりも他に仕事が多かったので、三合星、五合星貰うようになるにはかけ弟子よりは数年遅れるのは普通であった。
三合星とは、大工の一日の賃金が百円とすれば三十円、五合星とは五十円のことである。
米一升が一日の賃金に値することからの言葉であろう。
八合星になると、師匠も安心して任せられるようになり、叱られたりすることもなかった。
師匠離れして一人前の大工になるには、一切自分の力で家一軒を作り上げなければならなかった。
大工になれず、八号星のままカンザー大工で終わる人もいた。
カンザー大工は弟子を持たずあっちこっちの師匠に雇われの大工である。

昔は丸太を動かないように固定し、鋸(ノコギリ)でエッコラエッコラ角材にわき、また、手斧(チョウナ)で削って梁や柱に仕立てた。
師匠と勘助は、両側からコツコツ、線に沿って手斧で削り始めた。一休みしたくても師匠は手を休める気配も無く、手を緩めると手斧は滑って足に切り込むこともある。師匠との呼吸を乱さないように一生懸命に削った。
ようやく師匠と尻合わせになった時は腰はしびれ、手斧を握った手は伸ばそうにも手斧を握り締めたままで、一本一本指を離したぐらいのときもあった。
平木は、平木割りの職人が杉の丸太を一定の長さに切り、一枚一枚手割りした。
平木針は竹剥を作り、油でいって作った。鉄針が腐っても竹剥は腐らなかった。

大工は、現在は建築職人の総称になっているが、奈良時代は官庁の技術官の職名で、建築技術者の最高位であった。
その下に小工などの職制があった。五合星や八合星のものは小工に属したのかもしれない。

いよいよ勘助も師匠離れする家造りの時が来た。
上の座、下の座、奥の間、地炉の間の四つを田の字型に設計して、これに土間板敷、炊事場を設けた。
中心の亭主柱は四方の切り込みである。組み合わせの墨打ちをしなくてはならない。
文字を習っていない勘助は上の座から○×△で印を付けたが、足りないのでトンボや鳥や魚など、いたずらに男や女の絵など色々と書いた。
棟上げになって、組み合わせになると順調に組み合わさってほっとしているところに、
「勘助、こけぇ来てみれ。どうしても合わんが」
切り取る所を残して、残さなければならないところを切り取っていたから、合うはずが無かった。
「勘助、こりゃ何某夫婦のようにバキーがどうしても受け付けんど。ごうらし何とかせんば亭主が泣きよんど」
と冷やかされながら作りかえて、一軒を仕上げた。

勘助は独立して大工になったが、勘助が造る家はどれも同型で、家を建てた大工が分かった。

(広報にしのおもて 市制の窓 昭和58年10月号に掲載していたものです)

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