すばらしい秋空の中、10月19日(金)~21日(日)にかけて「ひとつ葉の会」5名で研修視察を兼ね宮崎県日南市飫肥城下まつりの四半的大会に参加してきました。
大会参加は、今年で3回目、しかし、日頃の練習不足でもちろん最下位。皆さんとの技術の差がすごい・・・
今年は、台湾からも8名の若者が参加しました。
いよいよ、四半的も国際的に・・・・
開会式、今年は27チームが参加。会場は飫肥中学校第2グランド。
ほとんどの参加者は、4間半先にある4寸5分の的を外しません。
宮崎県は、四半的が盛んで各地区でチームがいくつも結成され、このような大会が県内各地で年間30回程度開催されています。
四半的とは (ウィキペディア)
的までの距離が四間半(約8.2m)、矢の長さが四尺半(約1.36m)、的の大きさが四寸半(約13.6cm)ある事から「四半的」の名がある。
飫肥では娯楽として親しまれており、飫肥城跡や家に射場があるほか、人々(男女は問わない)が「練習」として公民館等に集まり、焼酎を飲みながら四半的に興じる習慣があり、人々のコミュニケーションツールとしても機能している。地元の松の露酒造からは「四半的」という銘柄の焼酎も出ている。
永禄10年(1567年)に伊東義祐が島津忠親がいる飫肥城を2万騎を率いて攻撃した。島津軍は援軍を送ってきたが、竹で作った半弓で武装した農民たちが島津軍を圧迫し、伊東軍が勝利した。この功績により、伊東義祐が農民に娯楽目的で弓を持つことを許可した。これが四半的の始まりと言われている。天正11年(1583年)の島津家の家老である上井覚兼の日記には「武将たちが酒盛りの余興として「四半」を行った」という記録があり、遅くともこの時期には飫肥近辺で広く行われていたことが分かる。国境防衛策と娯楽を兼ねて、伊東家家臣山田宗昌(匡得)が振興した物と伝わっている。
飫肥では下級武士を半農として住まわせており、日置流弓術も盛んであった。そのため、大人は大弓を射ており、幕末から明治時代にかけては四半的は子供達の正月遊びとして主に行われていたが、現在は大人の遊びとしても親しまれるようになっている。
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畳に正座して、横向きに狙いを定めて巻き藁を射る。
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日本の弓術には珍しく、矢を摘む様に持つ「ピンチ式」という持ち方をする。
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「サイコー!」(「さあ、いこう!」の意)という掛け声を使う。
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得点を数える時に、「正」の代わりに「玉」の字を使う。
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的の大きさは普通は四寸半だが、練習時には二寸や一寸五分の的も使う。
今年は、生駒高原のコスモスも見学してきました。
今が満開です。きれい・・・・
都城市内の都城島津邸、国の重要文化財になっています。
かつて、昭和天皇もお泊りになったとのことで、特別誂えのテーブル、ベッド等もそのまま展示されています。
また、この日は盆栽展も開催されていました。
島津伝承館では特別展「鉄砲伝来と薩摩筒」が開催されていて、種子島開発総合センター(鉄砲館)からの借用資料も展示されていました。非常に親しみを感じました。
それにしても、りっぱな邸宅でした。