2017年10月18日水曜日

研修視察と四半的大会


10月13日(金)~15日(日)にかけて、月窓亭ひとつ葉の会では、研修視察を兼ねて宮崎県日南市の飫肥城の見学と四半的大会に参加してきました。


月窓亭では、平成26年度に宮崎県日南市飫肥城の指導を受け四半的を導入し、来館者への体験できるメニューとして提供しています。

 
     飫肥城大手門前で
     飫肥城歴史資料館、松尾の丸などを見学しました。


 さすがに飫肥城下は宮崎県の観光スポットだけに、観光施設が充実しています。

 この日は、飫肥城城下祭りとあって、多くの人が見学にきていました。


 四半的大会は、当日雨天が心配されたため、会場が日南市総合運動公園おびすぎドームに変更になりました。




           

          宮崎県、熊本県、それと種子島から27チームが参加


 宮崎県では四半的は、広く県民に親しまれており、このような大会が県内各地で開催されている

とのことでした。

 そのせいか、みなさんお上手でほとんどが命中でほとんど的を外しません。
 
我々の腕はまだまだです。最下位でした。



四半的(しはんまと)

日南市飫肥付近を中心に伝わる独自の弓術。日南市無形民俗文化財指定。

的までの距離が四間半(約8.2m)、矢の長さが四尺半(約1.36m)、的の大きさが四寸半(約13.6cm)あ事から「四半的」の名がある。現在では宮崎県を中心に愛好者が広まっており、熊本県東京都府中市でも親しまれている。永禄10年(1567)に伊東義祐島津忠親がいる飫肥城を2万騎を率いて攻撃した。島津軍は援軍を送ってきたが、竹で作った半弓で武装した農民たちが島津軍を圧迫し、伊東軍が勝利した。この功績により、伊東義祐が農民に娯楽目的で弓を持つことを許可した。これが四半的の始まりと言われている。天正11年(1583)の島津家の家老である上井覚兼の日記には「武将たちが酒盛りの余興として「四半」を行った」という記録があり、遅くともこの時期には飫肥近辺で広く行われていたことが分かる。国境防衛策と娯楽を兼ねて、伊東家家臣山田宗昌(匡得)が振興した物と伝わっている。


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